以下は、前機関誌『ファミリー』1984年12月号に掲載された梶栗玄太郎会長の特別寄稿を要約したものです。
「40日断食の感想」(要約)
断食のきっかけ
1984年5月末に訪米したとき、ワシントンの「宗教の自由の日の大会」で、牧師たちが1週間、文鮮明師と共に牢屋に入ると宣誓をしたことが報告された。そのとき、キリスト教がこれ程決意しているのに、私たち統一教会は何をなすべきか、決死的なことをしなければならないと考えた。
そのとき既に、もし文先生が収監されたら、40日断食をやろうと肚(はら)を決めていた。
日本に帰ってしばらくして、井口康雄君が21日断食を始め、周囲の人が心配して止めさせてほしいと言うので、私が「21日より意義のある40日をやったらどうか」と勧めたところ、彼は収監日から40日を決意した。
若い人に勧めておいて先輩が楽をしては申し訳ない。命ずるには、先ず自分自身が肚を決めておく必要があるので、収監の際は消極的方法だが40日断食をしようと思った。
そこで、同年7月21日午前零時を期し、祈祷の中で天に誓って、井口君と共に始めたのである。目的は文先生救援のためである。
40日断食は未経験である。経験は7日断食しかない。7日断食の時はまだ若く、決死的であったが、頬はこけ、悪寒がし、肌の色は暗くなり見る影もなく寝てばかりいた。ところが、今回は若くなく、自分自身でやれるのはせいぜい3~4日であろう。
断食は1日1キロやせると言われる。この計算だと、現在76キロだから36キロになってしまう。果たして36キロで生きておられるだろうかとか、40日の途上でしぼんでのたれ死ぬかもしれないなど、心境は穏やかではなかった。
しかし、モーセやイエス様は40日やって死なれなかったし、生と死の問題は天に任せる以外にないと考えると非常に楽になった。
40日断食に突入
私は黙々として静かに断食をやることにし、誰にも知らせずに始めた。3日間は水も飲まなかった。しかし1週間も過ぎると、食事をしないので、人々の追及も厳しくなった。
10日過ぎて、10キロやせたものの平気であった。20日過ぎて20キロ近くやせたが、別に変わったところはなく、箱根で行われた研修会に参加した。この頃になると、気持ちは良いが思考力が著しく低下。その反面、霊的感覚は敏感になってきた。
33日目、箱根で開かれた会合に杖をついて参加。この頃はまだ急な階段を自力で上ることができた。しかし37日目、自宅までの5階の階段を自分で上れず、不覚にも背負ってもらった。
最後の4日間
40日断食をやっている最中、「苦しくなったら、途中で止めた方が良い」とか、電話で「すぐ止めなさい」など心温まる忠告をもらった。その度ごとに「なにくそ」と内心で反発し、それがかえって激励の言葉になった。
22日目頃、久保木修己会長(当時)から「日本のために頑張れ」と激励されたことも力強く感じた。
最後が近づき36日目ともなると、誰も反対しなくなった。「もうすぐですね」と祝いの言葉ばかりだった。反対がなくなった瞬間から苦しみが始まった。
最後の4日間は、前の36日間よりも辛いという印象であった。ほとんど周期的に吐き続け、断食の苦痛を味わう。寝たきりになると、起きることができなくなる。心臓も肺も弱り、体力は著しく消耗。視力は低下し、その上全身の力を出して吐いた。4日後には食べられると潜在的に意識し、胃液や胆汁が分泌してそれがたまる。下へは腸の動きが停止していて下らず、全部上から出すために、定期的に吐くのである。
最後の4日間の苦痛がなかったならば、40日断食は簡単で、何回でもできると甘く見たに違いない。
8月29日の夜12時、40日の断食がついに明けた。大勢が家に駆け付け、祝福してくれた。体重は20キロ減の56キロになっていた。皆が見守る中で、重湯一さじと野菜スープを一杯飲んだ瞬間、拍手を受けた。
結論
今回の40日断食の決行は、無謀としか言いようがない非常識な行為であった。しかし、神の存在を信ずるが故にできた。人間の責任分担といえば、決意することだけであった。一旦、肚を決めた後は、神と霊界の協助を得て楽に過ごせた。あとは食べなければいいだけである。
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